質問者は、勘違いをされています。 神様に何かをお願いすることはありますが、 仏様に何かをお願いするということはない、と思いませんか? 私なんかはもう何年も前になりますが、金がないのにパチスロをやったときに 「神様、どうか勝た … Q&Aの参照履歴新規登録・ログインgooIDで新規登録・ログインおすすめ情報 「神も仏もない」 わざわざそう口にする人はお年寄りぐらいだと思うが、近い感情を持つことはあるだろう。残酷なニュースなんかを見ると私もよく思う。だが、この「神も仏もない」という絶望感は一体何なのだろうか?実のところ私は神も仏も信じちゃいない。無神論者である。それなのになぜか世の中でひどいことが起こると絶望感を抱いてしまう。たぶん私は甘えているのだろう。「信じていない」とは言いつつも、心のどこかでは神や仏を信じているのだ。絶望した経験が一度でもある人はきっと同じだ。 善い行いをしていれば何かいいことがあるはず。神社仏閣を参れば何か神聖なものが宿る気がする。世界は自分が思ったような形をしているはずだ、と。完全に甘えている。無意識の内に。 信じることと騙されることは表裏一体である。どちらかというのはありえない。 「神」や「仏」に頼る。頼るというのは寄りかかることだ。その支えがなくなった瞬間、倒れてしまうのは当然のことである。私たちが味わう絶望感というのは、神や仏への甘えから生まれるものだと思うのだ。 個人的な話になってしまうが、私の奥さんはけっこう熱心な仏教徒である。仏教というのは、仏を信じる云々よりも自分の心の動きや成長といったものに焦点を当てているように思う。確かにお経だとか儀式とか、「なんでこんなことすんの?」というものもあるが、基本的には「自分」を中心とした宗教である。本当に熱心な信者というのは、常に自己責任の気持ちを持ち、むしろ無神論者よりもはるかに「神」を頼りにしていないように見える。これは私が出会ってきた人たちを見て思ったことだ。残念ながら私にそこまで信心がないので、彼らと通じ合うことはできないのだが、それでも「真剣に信じている人」には特有の気持ちよさがある。きっと彼らは私のように絶望はしないのだろうな、と勝手に思っている。 別に宗教の勧誘をしたいわけでもなく、私が言いたいのは、一般的に宗教にハマっていう人の方が弱い、というような認識があると思うのだが、実際はまぎゃくだったりするんだなぁという発見の話である。「あの人は弱いんだ」と勝手に決めつけていた人の方が、実は自分よりはるかに逞しかったり、世界に対して甘えていなかったりする。 知らん内に決めつけているとバカになるので本当に気をつけたい。と普段から思っているのにも関わらず、こうやって決めつけているのだから、きっと私はもうすでにバカになっているのだろう。いや、もともとバカだったのかもしれない。それでも自分のことをバカだと気付いている分、まだマシだと思ったりする。 「未必の故意」とはどのようなことをいうのでしょうか? 新規登録・ログインgooIDで新規登録・ログイン公式facebook公式twittergooIDで新規登録・ログイン外部サービスのアカウントで※各種外部サービスのアカウントをお持ちの方はこちらから簡単に登録できます。まだ会員でない方、会員になると 私は、宗教が神道ではない者として、口を挟むつもりはありませんでしたが、書かざるをえない気がしました。出来れば、新興宗教の方は、その身分を明らかにしてほしいものです。知っている人には分かります。教義に書かれていた内容は、必ずしも一般的な情報とは違いますから、読み手は間違った認識を持ってしまいます。私自身は宗教団体には関係してませんが、生まれながら、仏教と神道の狭間で、相矛盾した中で割り切れない問題を背負って育ってきましたが、ある意味で時代に翻弄された一人だというしかありません。 私は、宗教が神道ではない者として、口を挟むつもりはありませんでしたが、書かざるをえない気がしました。出来れば、新興宗教の方は、その身分を明らかにしてほしいものです。知っている人には分かります。教義に書かれていた内容は、必ずしも一般的な情報とは違いますから、読み手は間違った認識を持ってしまいます。私自身は宗教団体には関係してませんが、生まれながら、仏教と神道の狭間で、相矛盾した中で割り切れない問題を背負って育ってきましたが、ある意味で時代に翻弄された一人だというしかありませ...新規登録・ログインgooIDで新規登録・ログインおすすめ情報 気がついてしまったのだが、伊岡瞬はヤバい作家だ。この男の著作、とにかくまあ読ませる。“伊岡機関”と称される独特のリーダビリティは、“強烈な謎”と“圧倒的不安感”で読者を捉えて離さない。こちらの『悪寒』では、それなりに普通に暮らしていた会社員が、転がり落ちるように最悪の事態へと突き進む様が描かれる。こうやって書くと何が面白いのか、という感じだが、これがもう面白いのである。 物語に心を鷲掴みにされたい方。オススメである。読書中毒ブロガー。読むのは好きだけど、一瞬で忘れてしまうおバカちゃん。普段は大企業の末端で、大量の部下を抱えて死にそうになっています。というか死にたい。はやくブログで稼いで、自由を手に入れたいと常々思いながら、ゴロゴロしちゃう背徳感。ほしいものリスト⇒引用をストックしました引用するにはまずログインしてください引用をストックできませんでした。再度お試しください限定公開記事のため引用できません。 hasunoha(ハスノハ)は、あなた自身や家族、友人がより良い人生を歩んでいくための生きる知恵(アドバイス)をQ&Aの形でお坊さんよりいただくサービスです。 あなたは、悩みや相談ごとがあるとき、誰に話しますか? 友だち、同僚、先生、両親、インターネットの掲示板など相談する人や場所はたくさんあると思います。 そのひとつに、「お坊さん」を考えたことがなかったのであれば、ぜひ一度相談してみてください。なぜなら、仏教は1,500年もの間、私たちの生活に溶け込んで受け継がれてきたものであり、僧侶であるお坊さんがその教えを伝えてきたからです。 心や体の悩み、恋愛や子育てについて、お金や出世とは、助け合う意味など、人生において誰もが考えることがらについて、いろんなお坊さんからの癒しや救いの言葉、たまに喝をいれるような回答を参考に、あなたの生き方をあなた自身で探してみてはいかがでしょうか。 神(かみ)は、信仰の対象として尊崇・畏怖されるもの。. 神仏は敬うものであって、頼るものではない なぜ、罪のない人間がひどい虐待を受けたり、見ず知らずの通り魔に刺されたり、災害に巻き込まれて亡くなったりしなくてはならないのでしょうか?自らの努力ではどうにもならない苦境時にこそ、救うべき立場にあると思うのですが。ですから、神や仏を信ずることができません。お坊さんからの回答 4件回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。質問拝見しました 入力中の回答があります。ページを離れますか?※ページを離れると、回答が消えてしまいます入力中のお礼があります。ページを離れますか?※ページを離れると、お礼が消えてしまいます 神も仏も信じます。 宗教は信じません。 神を信じる事、仏を信じる事は、自分を信じる事につながるからです。 そもそも、教義・経典と言うものは、人間としての倫理・道徳を説いているもので有り、当然のことと思っています。 イエス様を信じて救われると、神様がいらっしゃる、ということと、自分は天の御国に入ることができる、という確信を得て、深い平安をいただく。 しかし、これは、神様の… この質問への回答は締め切られました。 」とあります。聖書はまた、神を信じないことに対して弁明の余地はないと宣言しています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。 「神仏を尊び神仏に頼らず」、これもは一つの信仰であるという答えですね。No.3 No.2 No.1 神も仏も信じます。 宗教は信じません。 神を信じる事、仏を信じる事は、自分を信じる事につながるからです。 そもそも、教義・経典と言うものは、人間としての倫理・道徳を説いているもので有り、当然のことと思っています。 なにか話がごっちゃになっていますね。 神仏を尊び神仏に頼らず。宮本武蔵の名言である。その意味するところは、神仏は尊びこそすれ決して神仏に頼ってはならないということである。さて質問ですが、これは信仰であると言えようか。信仰の目的が神に願うことであればこれは
あなたへのお知らせ これまでに何度もお話ししましたが、僕はむかし7つの教会を歩きました。神教では、「神様のことばを信じて行いなさい・・・」と言われ、仏教では、「仏様を信じて行いな…