多発性骨髄腫は初期の段階では症状がほとんど現れないことが多く、早期発見が難しい傾向があります。 多発性骨髄腫は骨髄の中にある形質細胞ががん化する病気で、正常な血液を作れなくなったり、骨の中に腫瘍を作ったりすることで、全身にさまざまな症状が現れます。 https://p.ono-oncology.jp/cancers/mm/02/01_treatment/01.html
一般的に66歳以上の方や、65歳以下であっても重い肝機能障害・腎機能障害などがある方の場合には、造血幹細胞移植は行ないません。このような移植非適応の患者さんに対する治療は、「寛解導入療法」とそれに引き続く「維持療法」によって行います。移植非適応の場合での寛解導入療法では、移植適応患者に対する「寛解導入療法」と同様にボルテゾミブ、サリドマイド、レナリドミド、デキサメサゾン等を骨格として使いますが、造血幹細胞採取を行わないため、これらに加えてメルファランを最初 … 多発性骨髄腫の末期症状と診断された母の生活. © 2020 あずまや All rights reserved.
SHARE6年前に多発性骨髄腫の診断を受けた母の予後と末期症状と、どんな生活をしているのかについてお話します。もくじ多発性骨髄腫と診断されて、1年で抗がん剤治療をやめた母は、その後3年近くかけて徐々に体に不調があらわれました。4年目の1年間は、料理をすることも多かったのですが自分たち夫婦の食事の準備を少しずつするくらいでした。毎年盆正月には、子供たちを連れて夕食を共にしていたのですが、そして同居する父からどうしたら良いのかと電話をもらった私は、近くのホスピスがある病院を勧めました。限界まで痛みを我慢していた母は、すでに痛みのために普通の乗用車に乗ることはできませんでした。だから、救急車で病院まで連れて行ってもらうことになったのです。 でも、母があまりに痛がるので、救急隊員三人がかりでも母を、なかなかストレッチャーに乗せることもできず、ものすごく時間をかけて病院まで運びました。 しばらく入院して痛みの緩和ケアを受けた母は、自宅に帰って来て緩和ケアを続けました。既に多発性骨髄腫の治療はやめていたので、5年目の母の症状は、常時痛みと苦しみを感じるようでいつも眉間にシワがより、かなり辛そうでした。 時々電話をかけてきては、孫(私の子供たち)に会えるのを楽しみにしていました。ベッドから起き上がるのも、ベッドから車いすに移るのも辛そうで、何をするにも痛そうでした。そして入院の理由は他は、食事はできましたが、かなり食欲が落ち、長時間お見舞いにお邪魔すると、体がしんどいと言って嫌がるので、お見舞いは30分以内で切り上げます。6年目に入り、 お見舞いや掃除に行くと(私は掃除が得意なので、掃除のために行くこともあります。)キレイになったキッチンを見る元気もありません。 母は、そして、主治医の先生は、いわゆる「末期」です。 抗がん剤の治療も受けず、民間治療と緩和ケアだけだった母の病気は家族の誰も奇跡を信じていなかったと思いますが母はいつも「もう少し良くなったら〇〇する。」と言っていました。 以前、多発性骨髄腫の末期症状を調べた時と書かれていたので、でも、多発性骨髄腫患者の家族としては、痛みに耐える姿を見るよりすぐ居眠りしている姿を見る方が良いですしもし、残りの時間がわずかだとしても、眠くなってお別れするなら仕方ないと思います。抗がん剤で治療していたら、もっと長く生きていたのか…。それとも抗がん剤をやめて良かったのか、母に聞くと泣かれそうなので、聞けませんでした。 7年目に入ると、母はいつ最後を迎えるのかわからない状態になりました。それでも5ヶ月は生きて、6月に亡くなりました。 痛みで「早く天国に行きたい。」と言うようになっていた母は6月に輸血のために入院し、容体が悪化しました。 最初に意識がなくなり呼吸の回数が減りましたが、一度、目を醒ましました。主治医によると「痛みのために、一時的に目が覚めたのかもしれない。」とのこと。 翌日、また意識を失いました。 一旦、呼吸回数が減りその後意識がないにも関わらず、母は痛みや苦しみのため唸り声をあげ、呼吸回数は増えました。 その後、脈が増え、血中酸素濃度が減り、血圧が下がり、亡くなりました。 やっと、痛みや苦しみから解放されたのだと思います。 一度は意識が戻らないと言われた母は、亡くなる前日まで食事をし、自分で簡易トイレを使って排便をしました。 多発性骨髄腫は、骨粗鬆症になり、骨がもろくなるのでもし心臓マッサージをすると、肋骨が粉々になるかもしれません。 だから、心臓が止まっても、胸骨圧迫はしないと決めていました。これ以上生きていても苦しみが続くだけなので、延命治療はしないことを家族と主治医で決めていました。時々無呼吸状態になるので、その度に家族が「息をしてー」と話しかけていましたがお見舞いに来る誰も「頑張って」とは言いませんでした。 大の男でも痛みに耐えられないと言われる多発性骨髄腫という病気。4年目まで病院で積極的に治療をしなかった母は、最初の診断から6年半生きました。もし、抗がん剤など積極的に治療していたら、どんな結果だったのでしょう。思うことはたくさんありますが、母は痛みや苦しみから解放されたので「おめでとう」なのかもしれません。スポンサーリンク次の記事 当ブログの運営者まやです。現在兼業主婦。学生時代に学んだ微生物・科学・化学の知識を料理・掃除・洗濯に生かしています。家のこと、片付け(整理収納アドバイザーの資格あり)、自分目線で「気になること」や「知りたいこと」を書いています。どうぞごゆるりと御覧ください♪ 多発性骨髄腫 生存率って何年なんですかー? 多発性骨髄腫 遺伝的要因なに? 多発性骨髄腫 末期症状について; 脳腫瘍 後遺症まとめ; 脳腫瘍 後遺症 性格が変わるということは有る? 脳腫瘍 後遺症 言語障害や視覚障害などが出る?
Menu多発性骨髄腫の治療には、骨髄腫細胞をできる限り減らすための治療(化学療法、自家末梢血幹細胞移植)と、症状を抑えるための治療(支持療法)があります。新規薬剤や抗がん剤を用いた化学療法によって、骨髄腫細胞をできる限り死滅させます。通常、複数の薬剤を組み合わせて使用し、その種類や用量は患者さんによって異なります。新規薬剤近年、多発性骨髄腫の治療は目覚ましく進歩しており、多くの新しいお薬が登場しています。新規薬剤や抗がん剤による化学療法を行った後、患者さんから造血幹細胞(すべての血液細胞のもとになる細胞)を採取します。そして、大量の抗がん剤による化学療法でさらに骨髄腫細胞を減らした後、採取した造血幹細胞を戻し、正常な造血機能を回復させます。65歳未満の患者さんが対象ですが、65歳以上でも全身状態がよければ行うことがあります。骨痛には鎮痛薬、骨病変にはビスホスホネート剤、貧血には輸血など、症状に応じた治療が行われます。 多発性骨髄腫と診断されて、1年で抗がん剤治療をやめた母は、その後3年近くかけて徐々に体に不調があらわれました。 【予後】4年目の終わりころの症状と生活.